『私、シン兄ちゃんのお嫁さんになるん。そんでずっとずっと一緒に暮らすのー』
 幼い私の口癖。両親も、もちろん相手に指名された当の本人も、子どもの戯言だと笑って聞いていた。ほほえましい兄妹愛。なんてことのない幸せな家族の風景。
 でも、誰も知らない。知られていないはずだ。
 私が、今でも、本気で、そう思っているなんて。
 ずっとずっと、焦がれるようにただそれだけを願い続けているなんて。

 叶わないと知りながら、だからこそ、どうしても諦める事が出来なくて。
 ずっとずっと。
 口の悪い、優しい兄を愛している。




ただあなたの幸せを




「シン兄ー」
「お、なんや、ほんまに来たんか」
「ほんまにって、なにそれ。ちゃんと行くってメールしといたやん」
「やーいつも来る来るいうて直前のドタキャン多かったし、今回もそうかと思ってな」
「あ、う、前はそうやったけど、今回は違うん…………ごめん、なんか迷惑やった?」
「ああ、謝らんでもええって。そんなんちゃうから。スマン、俺が早とちりやったわ。――――ほなまあ、メシでもいこか」
「うん!シン兄のおごりで!」
「ちゃっかりしとんなあ…………誰に似てんやろ」
「そんなん、シン兄に決まってるやん」







(連絡とれへんっちゅーねん。あのバカ兄貴!)
 横浜のおしゃれスポットに、ぽつんとある防災基地。東京についてすぐに、(所在不明で連絡ひとつもよこさない不義理な)兄はどこにいますか、と勤務地である特救の基地にしょうがなく電話すると、なんだか慌てたような声色で誰かがその住所を教えてくれた。ほんとに妹さんですか、と何回か会話の間に聞かれながらも、行き方や訓練終了時間など丁寧に教えてくれたその人(誰だろう、若い男の人だということしかわからない)は、軍曹にも妹さんいたんだ、と失礼な感想をぽろりと漏らした。
(軍曹…………?)
 お兄ちゃんはどんな仕事をしているのでしょうか。軍曹って。軍隊じゃないはずだよね、え、海保って自衛隊だっけ?
 首をひねりながら電車を乗り換え乗り継ぎ、桜木町まで行った。そこからてくてく歩いてやっと「横浜防災基地」と壁面に大きく書かれた建物にたどり着く。既に連絡がいっていたのか、シン兄はゲートの外で待っていてくれた。ちょうど仕事終わりの時間だったのだそうだ。

 そして、冒頭の会話を交わした、と。そういう訳。

 私とシン兄は神戸の実家の近況などを話しながら、そばにある赤レンガ倉庫に向かった。おまえと来るんはもったいないくらいのとこやけどまあええか、と失礼なことを言うシン兄の背中を軽くどつきながら、私たちは2階にあるダイニングレストランに入る。
 店員に案内されるままに窓際の席について、シン兄は、ほんで?と片方の眉をあげて私を見た。
「なんで急に来ることになったんや」
「うーん、話せばイロイロあんねんけどね」
「長いんか」
「長い……かな」
「オカンは知ってんの、がここにいること」
「うん、知ってる」
「そーか、ほなええわ。………何食う?」
 シン兄はそれ以上何も聞かずに運ばれてきたメニューを広げた。俺これとこれ食う、とすばやく何品か指を指すと、あとは好きにせえ、とソファにどさりともたれかかった。
 相変わらずのシン兄に笑いがもれる。
 食い意地が張っているというより、単に食事が好きなのだ。いつだって健啖家。家族からはなんでそんな食べてんのに育たへんの、と揶揄されていたけど、シン兄が食事をしているさまは豪快で、見ていてなんだかすっきりする。小さいころから、ずっと、そうだった。
 そしていつもひどいことばかり言うようだけど、本当の意味で聞いてほしくないこと聞いてほしいことを察知して、何気なく気遣うのもシン兄らしいところだ。今だっていつだって、ずっと私の気持ちをだれよりも早く正確にわかってくれる。
 手持ち無沙汰に外を眺めている横顔は、どれだけ年を重ねても小さい頃の面影が残っていて、懐かしいような面映いような不思議な気持ちになる。どうしよう、相変わらずすぎてなんか嬉しい。どうしようどうしよう。
 店員さんを呼んで注文をすませてからもニヤニヤ笑いが収まらない私を見て、シン兄はぐしゃりと顔をゆがめてみせた。
「何にやにやしてんねん、気持ち悪いぞ」
「あーもう、かわいくなったとか言えへんの?」
「言えるかアホ。見飽きてんねんて、の顔なんか」
「相変わらず女心のわからへん男やな、シン兄は」
「相変わらずで悪かったな。………健兄はどうしてる?」
 ああ、健兄?と私は笑った。
 健一兄さんは、私たちの共通のお兄さん、つまり長男。進次兄ちゃんは次男。で、長女の私。それが嶋本ファミリー子どもの部。
「シン兄と違ってオンナゴコロのわかる健兄は、かわいいお嫁さんと立派に家継いでるよ。もうすぐ待望の赤ちゃんも生まれるし、万事順調ってとこ?お嫁さんめっちゃかわいいよ。私にも良くしてくれるし!シン兄と違って健兄は優しいし!」
 シン兄と違って、を強調すると、しかめ面がますます渋くなった。そんなもんわからんでも生きてけるしー、と憎まれ口をたたくのにまた笑った。
「心配してくれてんねんね?わかってるって、テレやさんやなー、もお!」
「アホか、そんなんちゃうわ。うるさい小姑にせっかく来た健兄の嫁さんがイビられてへんかって心配してんのじゃ、ボケ」
「どっちにしろ心配してるんやん」
「ほんま口の減らへんガキやなおまえはっ………!」
「シン兄に似てんの。あと私もうガキとちゃうよ、悪いけど」
「ほなオバハンか。ああ、そっちのほうがぴったりやな」
「ムカつく………!久しぶりに会った妹にもうちょっと優しくしたろとか思わへんの?」
 私の言葉にべ、と舌を出してみせるシン兄。
 私も負けじと舌を出した。ブサイクがますます見られへんくなるぞ、とまたもやイジワルを言いながら、ほんで今日は、とシン兄は聞いてくる。
「え?今日?」
「そう、どこ泊まるつもりや」
「え、シン兄んとこ」
「……やっぱりか…………」
「ホテル泊まるほどのお金はないの。よろしく!」
「あー………まあええけどな、明日は休みやし」
「あ、そうなん?ちょうどよかったー」
「おまえには、な」
「え?」
「なんでもない、こっちの話や」
 少しだけ複雑そうな顔でシン兄は話を打ち切ると、さ、来た来た!と運ばれてきたお皿に目を輝かせた。
 私の分も残しとってよ!と、先に食べ始めるシン兄を牽制しながら、ナイフとフォークを持つ。真ん中に置かれたお皿の中身がどんどんなくなっていくのを、あきれたような感心したような気持ちで見ながら、私は、さっき一瞬だけ見たシン兄の顔を思い出していた。
 あんな表情、みたことない。何か、明日に用事でもあったのだろうか。
 それも、とても重要な、用事が。
 家族の私でも見た事のない顔。───いや、家族だからこそ見る事のなかった顔かもしれない。それはどういう部分か、って───もしかして恋愛関係?いや、でも、まさか。
 じわりと胸に黒い疑問がわきあがってきた。
 ふりきるように、目の前の料理に意識を集中させる。食いっぱぐれたくなければ闘うこと。嶋本家の家訓を思い出し、無駄な努力と知りながらも自分の食糧確保に努めるのだった。




「おじゃましまーす」
「おお、ほんまにジャマやわー」
「ほんまにこのちっさいおっさんは………!」
 わはははと笑いながらシン兄は靴を脱いで玄関を上がった。私も気兼ねなくあがりこむと、きょろきょろと生活チェックをしながら奥の部屋に足を踏み入れる。
「あれ、どうしたんシン兄」
 テーブルの上にはビールの空き缶や惣菜の空容器が散乱している。
 むっとする空気に辟易しながら窓をあけエアコンのリモコンを探していたシン兄は、その声にびくりと振り返ると何故かあせったような顔をした。
「えっ……」
「シン兄ってけっこう几帳面やん?こんな散らかしっぱなしって許せへんのかと思ってた」
「ああ………そやな」
 どこかしどろもどろにリモコンを操作するシン兄に首をかしげる。私は落ちていたビニール袋を広げてごみを始末しながら何気なく尋ねた。
「………誰かお客さん来てはったん?」
「は?」
「だってこれ、ふたりぶんやし」
 箸が2膳、惣菜も缶も結構な量がある。ひとりで飲み食いするにはちょっと多い。いくらシン兄が鉄壁の胃袋を持っているとしても、だ。
 くるりと部屋を見回すと、客用布団は出された形跡がなかった。と、すると泊まったのではないだろう、この部屋のシングルベッドは二人で寝るのにはかなり狭い。
「お友達?」
「………いや」
 低く否定するシン兄に、どきんと心臓が跳ねる。もやもやと嫌な予感が胸を焦がした。
 もしかして。
「………彼女?」
 恐る恐る尋ねると、これにも否という返事がある。
 ほっと胸をなでおろしたが、会話の最初にはさまる奇妙な間はなんなのだろう。嫌な想像をたくましくする自分と戦っていると、ぽそりとシン兄が呟いた。
「…………職場の人がな、来とって」
「へえ」
「ちょっと飲み明かしてた」
「………ふうん」
 ウイーン、とエアコンが動き出した音が響いた。それくらいの沈黙だった。中途半端に窓をむいたままのシン兄と、机のそばに膝をついた私。蛍灯が白すぎるで部屋を照らしていた。何故かお互いに禁忌にふれてしまったかのような気まずさと後ろめたさを覚えながら、頭上から吐き出される冷気に身体をさらしていた。
「風呂でもいれよか」
 シン兄は誰に言うでもなくつぶやいて、ばたばたと廊下に消えていった。
 私は、ふう、と息をついて片づけを再開する。
 コンビニ箸を2膳まとめて袋に突っ込みながら、これをつかったのはいったいどういう人なんだろう、とぼんやりと思った。
 シン兄に片づけを忘れさせるくらいの語らい。きっと遅くまで話し込んだのだろう。職場の人となら仕事や諸々、つもる話もあるだろうし。そう、だから何も不安になるような事ではない。
 ────そもそも不安になる権利なんて私にはない。
 だって兄妹なのだから。血のつながった、正真正銘の兄妹なのだから。兄に恋人ができようが、その人と夜更かししようが、異論をはさむ余地などない。嫉妬などもってのほかだ。
 私はビニール袋の口をしばりながらため息をついた。
 そんなこと、わかっている。物心ついて、自分の気持ちが何なのかを自覚してから、ずっとずっと一般的なモラルと闘ってきた。普通は恋人と兄を比べたりしない。普通は年頃になったら家族よりも恋人が大切になるもの。普通は、普通は、普通は。
 私は普通じゃないんだ、と幼心に何度傷ついただろう。同級生の会話にはいっていけない。恋というものになじめない。疑われる事のないようにそれなりにおつきあいもたしなんだが、本当の心はずっとひとりの人にむけられていた。
 どれだけ普通じゃなかったとしても。どんな苦悩がそれに伴おうと。
 この想いを全うすることこそが、私の真実だと。
 今は、そう、思っている。


、先はいるか?」
 ドアから顔を覗かせて、シン兄は私に尋ねる。どうやらお湯をはりおわったらしい。シン兄のうしろから、微かに良い匂いの湯気が流れ込んできていた。
「うーん、シン兄が先入ってー。私今から荷物片すから」
「そっか、ほなお先に」
 シン兄はクロゼットから着替えを取り出すと、素早く浴室に消えていった。やあやって薄い壁のむこうから水音が聞こえだす。何事も手早いシン兄のことだ、きっとすぐに上がってくるだろう。私は鞄を開け洗面用具を取り出すと、着替えと一緒にベッドにのせた。
 ふう、とため息をつくと途端に旅疲れが襲ってきた。たいしたことない移動なのだが、目的地が目的地だけに、過度の緊張をしていたらしい、身体もまぶたもじんわりと重かった。
 シン兄の部屋、シン兄のベッド。
 オトナの男の人の部屋。
 兄妹ならばなんの造作もなくこうやって部屋にあげてもらえる。
 そのことが嬉しく、また同時に悲しかった。
 私は兄妹以外のなににもなれない。一生このまま、兄妹のまま、つながっている。
 望めば側近くに寄せてもらえるけれど、本当に欲しいものは与えてくれない。だから妹としてかわいがられるだけで満足しなければいけないのに。優しく頭を撫でる手、不調に気づいてそっとしておいてくれる気遣い。そういう些細な家族愛以上のものを求めてはいけないのに。
 私はシン兄のベッドに顔をうずめて、じわりと浮かんでくる涙をこらえた。
 ああ、どれだけ自分が罪深いか、よくわかっている。でも、神様。その罰として、私には幸福をくださらないのでしょう?
 許されるなら一度だけでいい、一度だけでいいから。シン兄とそういう意味でのキスをしたい。
 男と女として、一度だけでいいから。
 ───でも、わかっている。
 そんなことをしたら、きっと兄妹でもいられなくなる。それは他人になるよりももっと酷い。
(ねえ、愛って一体なんなんやろうね。なんでこんな、ままならへんのかな)
 私は壁をへだてたシン兄に心の中で問いかけた。
 答えなど、かえってくる筈もなかった。


 シン兄に続いてお風呂に入り、出てきた時にはすっかり寝支度が整っていた。ベッドに平行に並べられた客用布団。もっさりとした花柄のそれは、ほぼ私専用らしい。このもっさり具合がお前にぴったりや、そう言ってシン兄は屈託なく笑った。
「そうなの?誰も泊まりに来たりしないの?」
 シン兄は、一瞬目をしばたかせてから、いーひんなあ、と宙をにらんだ。
「俺、鬼軍曹で通ってるからな。誰も来たないんちゃう?」
「そうかな、シン兄がそう思ってるだけとちがうん?………ほんであれ?女の人も来ーへんの」
「うっさいわ、俺のことより自分のこと心配せえよ」
 そう言ってきししと笑いながら私の肩を小突く。どーせ寂しい生活しとんのやろ、とからかう言葉に心臓がずきんと痛んだ。
「余計なお世話。よりどりみどりすぎて選べへんねん。私のせいで争いがおこったら悪いやん」
「よーゆーわ」
 私の言葉に大笑いしながら派手にのけぞった。まあそらええこっちゃ、と揶揄するような口調になる。
「シン兄は………?彼女は…………?」
 否定してほしくておずおずと決定的な質問を投げかけると、シン兄は困ったように肩をすくめた。おらんて言うてるやろ、と口調とは裏腹に儚げに笑う。
「こんな煩い小姑がいたらな、そうそう結婚も考えられへんしな」
「結婚………」
 つぶやいた私に慌てたように冗談冗談、と手を振った。
 私はシン兄の口からでてきた、結婚、という言葉に半ば呆然としていた。
 それは私にとっての禁忌だ、と思う。
 結婚。決定的に私をシン兄から遠ざけるもの。私がたぶん一生しないだろうこと。家族が全員、シン兄と私にして欲しいと望んでいること。
 とても遠い。そのあまりの幸福なイメージに目眩がする。
 結婚な、と、シン兄は壁にもたれかかりながらぽそりと呟いた。
「当分せーへんな。……つーか、できひんかも」
「なんで?」
 諦めたように言って笑うシン兄の顔は、どこか超越したものを感じさせた。諦観というのだろうか、静かなきっぱりとした諦めの雰囲気。シン兄はなんでもや、と私をみつめて、また儚げに笑った。
「―――でも、正味の話、には幸せになってほしいなあ」
 目を細めて私を眺めながらシン兄は言う。まるで小さい子を見守るような慈愛のこもった瞳に、私は泣きそうになってしまう。
 やめて、そんな風に見ないで。
 でも、もっと愛して。例え家族のそれでもいいから。
 もう小さい子じゃない、あなたの妹の幸せが何かなんて、知らないくせに。
「………なに、ゆーてんの、じじくさい」
 ぐるぐると心中を駆けめぐる想いを抑え、かろうじてそれだけを口にする。ほんまやな、とシン兄は照れ笑いを浮かべた。
「シン兄が先でしょ。シン兄が幸せになったら………私も焦るから」
 乾いてひりつく舌を動かして、本心とは全く逆のことを口にする。妹としては、こういう答えで及第点をもらえるかしら。伺うように見上げたシン兄はしかし、何とも言えない表情をしていた。苦いものを口に含んだような、そんな顔。
「シン、兄………?」
 沈黙に耐えかねて私が呼びかけた時、場違いに明るい着信音が鳴った。びくりとシン兄の肩がはねる。どこだろう?と聞き覚えのない音楽を耳で追いかけて目をさまよわせるより早く、素早くベッドから降りたシン兄が携帯を耳にあてた。
「もしもし」
 その声が少し弾んでいるように聞こえたのは、気のせいだろうか。


「───いえ、大丈夫っすよ」
 シン兄は窓をむいて会話をしている。私は見るともなしにその後ろ姿を眺めていた。
「え?ああ、いや………妹が」
 ちらりと私を振り向いて、一瞬後に顔をしかめた。なんやの、失礼な。
「ちゃいますて。………ああ、そうですね。…………そんな、いや、まあそうですけど」
 頷いたり手を振ったり忙しく身体を使いながら会話は続く。
「明日?………ああ、はい。………えーっとまだわかんないっすね」
 明日?
「あさっての訓練前………あ、そっか、ほな無理かあ。………でも、隊長、それは悪いですよ」
 隊長?
「はい、はい…………あ、それがありがたいっすね。うん、それで。…………そうします」
 仕事の話かな、とのんびり布団の上で身体をくつろがせていた私の耳に、シン兄の声がひびく。
「はい、じゃあ…………おやすみなさい」
 ただの就寝の挨拶なのに、その声色はぞっとするくらいに優しかった。
 思わず身体が震えた。きゅ、と自分の腕をつかむ。
 決して私には与えられない類の優しさ。それはつまり、他人にむける最大級の愛情。
 耳を疑った。携帯を閉じて何かを確認するようにカレンダーをにらむシン兄の後ろ姿を凝視する。
 隊長、と言った。だったらそれは今までも話にでてきたことがある、真田さんという人だろう。シン兄の憧れの人。というよりその卓越した能力ゆえに、全ての隊員から尊敬を一身に集めている人だと聞いたことがある。
「誰………?」
 尋ねた声は小さかったけれどよく通った。シン兄は、ぴくん、と肩を震わせる。
 そのまましばらく動かない。
「シン兄?」
 目を伏せながらゆっくりとふりむいたシン兄は、どこか悲しそうに笑った。
「真田隊長」



 会話がはずまない。
 真田隊長とやらの電話の後、シン兄は目に見えてしゃべらなくなった。落ち込んでいるというのとは違う、何かを深く考え込んでいるようだった。私がネタを振っても、ちょっとありえないくらいにボケてみても、ああ、とおざなりにいらうだけで放置している。
 あげくの果てに、もう寝よか、とさっさと床に入ってしまった。
「シン兄?………明日、もしかして用事あるん?」
 しょうがなく床に敷かれた布団に身体を横たえて、私はベッドの上に質問をなげかける。
 いや別に、と返事はにべもない。
「ごめんね。急にお邪魔してしもて」
 私はしおたれた気持ちになって、心の底から謝った。シン兄の時間を侵害しているのはどう考えても私だったから。それに思い至ったのがつい今しがただというのが情けないけれど、言わないよりはマシだろうと、私は謝罪の言葉を連ねた。
「………
 ごめん、悪かったと思いつく限りの言葉で謝り続ける私をさえぎるように、シン兄は静かに声をかける。
「………………はい」
 常にはない、かしこまった私の返事にシン兄は少しだけ呆れたように笑った。
「俺が悪い。ちょっとイライラしてたわ。すまん。――――だから、もうそんな謝んな」
「ごめんなさい…………」
 もうええて、とシン兄はもぞもぞと身動きした。布がこすれあう音が隣から聞こえる。私はなんとなくそちらを向くことができずに、じっと天井のホタル電気を見ていた。
 オレンジの柔らかなが隙間なく部屋を照らしている。ベッドに入る前に何も言わずにを整えたのはシン兄で、小さいころから暗闇だと眠れない私の癖を覚えてくれていたのだと落ち込んだ心の片隅で嬉しくなった。
 こんな風に並んで眠れるのは、兄妹の特権。
 気兼ねのない空気も、沈黙を恐れない気安さも、私だけのもの。
 泣きそうになって、慌てて布団を引き上げた。鼻を覆った布団からは埃の匂いがして、思わず顔をしかめたその時、シン兄の静かな声がした。
?」
「なに?」
 ふ、と呼びかけに視線をやると、シン兄はひじをついてこちらを見ていた。くちびるは笑いの形をしていたけれど、瞳はびっくりするくらい真剣だった。
「聞いてもええか。――――おまえ、なんでこんな急にこっち来てん」
「え」
 私は言葉につまる。
 シン兄は何も言わずじっと私を見つめている。どうしよう、と思考が急回転した。嘘でごまかすこともできる。気合ではぐらかすこともできる。シン兄は真剣だけれどもどこか優しくて、私は答えたくないとつっぱねたらそうかとそのまま納得してくれそうだった。
 ―――――けれど。
 昔からシン兄にはひとつのこと以外で嘘をついたことがなかった。
 適当につきあっていた彼氏にこっぴどく振られたときも、友達とケンカして泣いていたときも、母親とぶつかってしまってくさっていたときも、いつもぎりぎりのタイミングでシン兄はこんな風に質問をしてくれて、私はそれに嘘で答えたことはなかった。
 それは私がシン兄を信頼しているから。信頼されているから。
 相談できないのは、この胸に秘めた恋の話だけ、だった。
 でも、恋以外で困った時にはシン兄は誰よりも頼りになる。いつだって私が望む方法で問題を解決する糸口をくれていた。
 昔から、それこそ10年以上も前から変わらない静かな瞳が私を見下ろしていた。
 いたずらに視線がさまよう。開いた口から声にもならない音が出た。
「あ…………」
「オカンが知ってるって、嘘やろ。お前誰にもなんも言わんと、出張やゆーて出てきたやろ?」
「な、んで……」
「さっき電話した」
 ごめんな、とシン兄は眉毛をよせた。あんましお前が常と違うように見えたから、ついな。
 私はふう、と息をつく。
 結局シン兄には勝てやしない。私のアサハカなたくらみなんてお見通しだ。
 そう、私は出張だと偽って東京に来ていた。有給を使って前から調整していたのに、なかなかシン兄に連絡できなかったのも、そこから家に連絡をいれられるとマズイと思ったからだ。
 馬鹿だと思う。そうまでしたのなら徹底すべきだった。どこかホテルに泊まればよかったのだ。そうしたら私だけの嘘だったのに。近くに来ているから顔を見たいと欲望のままに行動してしまった私は、本当に浅慮としか言いようがない。
 私は観念して口を開く。本当のことを、言うしかないと、そう思った。
「あのね……………大学をね、見学に来た」
「はあ?」
 予想外の答えだったのだろう、シン兄がすっとんきょうな声を上げる。それに構わず私は一気に話を続けた。
「やりたい勉強があって…………自分のお金で通うだけの貯金はできたんやんか。でも全く働かへんのは無理やし………そしたらどうしても夜学になんのね。夜学で私のやりたい学部があるとこは東京にしかなかったから、それの見学に来た。ついでに住宅状況も調べたかったし。もうそんな遊んでいられる年でもないし、今年の試験で決めようと思ってるんやんか。おかーさんに言ったらゼッタイに反対されるから、黙って来た。それだけ」
「………
「どうしても、どうしても、それを勉強したいん。そのためにずっとお金ためてきたんやもん」
「………や、うん、事情はわかったけど。───そうまでしたい勉強ってなんやねん」
 ああ、ついに聞かれた。流れからそうくるだろうとは思っていたけれど、そんな虫の良い話はないけれど、これはできたら言いたくなかった。シン兄だけには言いたくなかった。
 わずかに目を閉じた。オレンジがさえぎられて暗闇が視界に広がる。シン兄が私を見つめているのが痛いほどにわかった。シン兄の瞳に自分だけが映っていると思うとそれだけで涙がでそうになる。
 でも、わかっている。これを決めた時から。シン兄に説明することを避けては通れないってこと。だって学校に通うようになったら嫌でもわかるだろうし、過去のことを考えたら、誰よりも先にシン兄に説明することになるだろうと思っていたし。
 だから、足りないのは、私の熱意と決意だ。誰に何を言われてもやりぬくという覚悟だ。
 す、と息を吸って一気に吐き出す。
「心理学、やりたいの」
「しんり、がく」
「うん。なんていうか…………私には研究したいテーマがあって、それで悩んでいる人の助けになりたいん。できたら特定の問題のカウンセラーになりたい。そういう職はなかなかないのもわかってるけど、探せばあるやろうし、いざとなったらNPO立ち上げるとかいう手もあるし」
「おい」
「難しいんはわかってる。それで食べていけるようになるかなんてほんまにわからへんし。でも、このままいつか家の仕事手伝うつもりで、コネで入った会社でのうのうとやってくなんて、もうできへん。だから、家を出るつもりなんやんか…………」

「わかってるよ、無理やって言うんやろ。そんなんできへんって言うんやろ?ずっと実家におったお前が何を甘えたことをって、シン兄はゼッタイに言うと思う。けど、もう決めたん」
「……………」
「今のままで充分幸せやし、私は恵まれてると思うよ。思うけど、そこには私の本当の幸せはないって…………そう思う」

 私を呼びつつけるシン兄の言葉をさえぎって、私は言い募る。
「一回しかない自分だけの人生なん。私は私だけの時間を生きたい。死ぬときにああやっとけばよかったって後悔するなんか絶対に嫌。どんだけ苦しくてもそれが難しくても、私は自分の好きなように生きたい。誰かのせいでつまらなかったって思いたくないん」
、わかったからちょお落ち着け」
 シン兄ははたはたと手を振って私の話をストップさせた。
「シン兄」
「俺は何もお前のやりたいことに反対するために話してんのと違うんやから───落ち着け」
 シン兄はす、と起き上がり、布団の上にあぐらをかく。私ももそもそと布団から抜けてぺたんと座り込んだ。
「初めてしゃべった、こんなん」
「そか」
 困ったようにシン兄は頭をぽりぽりと掻いた。俺が口はさむ隙間もなかったぞお前、と言って少しだけ笑った。しょうがなくそれに照れ笑いを返す。
 自分の本当の想いをしゃべったからか、心臓がばくばくと跳ねていた。否定されることも怖かったけれど、しゃべりながら揺らぐかもしれない自分の意思のほうがもっと怖かった。
 虚脱感にまかせてぼんやりと膝の上に投げ出した自分の手を見ていると、シン兄が静かな声をだした。
「お前がそこまで思ってるんやったら別に俺は反対せーへんよ。大人やねんから自分のケツくらい自分で拭けるやろうし、金ためてるんやったら文句のつけようもないわ。だから」
 シン兄は言葉を切って私の前にすばやく座り込む。両手でぎゅ、と頬をはさんでにやりと笑った。
「オカンには黙っといたる。なんかあったらお前の味方してやる」
「ほんまに!」
「おお、約束したろ。そのかわり─────何の勉強したいのか俺には言うとけ」
「え…………」
 思考がとまる。シン兄は至近距離でもう一度同じ言葉を繰り返した。
「こんな風に関わらせたんや、聞くくらいええやろ。そんなにお前がやりたいことがなんなんか、俺は知りたいぞ」
「シン、兄」
「言え」
 ぎゅう、と両手に力がこもる。いたたた、と小さく声を上げるがそれは黙殺された。
「言ったら………応援してくれるん」
「おう、男に二言はないぞ」
「じゃあ……言うわ」
 さっきよりも激しく波打つ心臓を押さえながら、私は目を閉じる。
「世間的には認められていない愛について、勉強したい。同性愛とか…………そういう普通じゃないと思われている愛で悩んでる人の力になりたい」
 ひゅ、とシン兄が息を呑んだ。
「普通じゃないって言われたり自分で思ったりするのがどんだけ辛いか私は知ってるん。それは悪いことじゃないのに、大多数と違ってると、それだけで悪いことのように思わされると思うんやんか…………そういう人にそうじゃないよって言いたいの。それは悪いことじゃないって。誰に反対されようが、誰に認められずにいようが、それは愛に違いはないって、そう言いたい」
 ふ、と頬に触れている手から力が抜けた。
 私はそうっと目を開ける。シン兄は視線を布団に落として手を引っ込めると、そうか、とひとこと呟いた。そのまま何も言わずにじっと俯いている。
「………シン兄?」
 呼びかけにも応じない。眉をよせて暗い顔。
「…………どうしたん?」
 体調でも悪くなったか、と声をかけると、シン兄はぼそ、とつぶやいた。
「なんの因果なんやろうな………」
「え?」
「や、こっちの話」
「なんやねんな…………シン兄おかしいで、どうしたん」
 肩をつかんで揺さぶると、シン兄はやっと顔をあげた。
、お前………なんか知ってるんか」
「はあ?」
 怪訝な顔をした私にシン兄はしまった、という顔をした。
「何が?なんも知らんけど……………シン兄?」
 はあ、とため息をついてシン兄は天井を見上げた。そらそうやお前が知ってるはずないよな、と、わけのわからないことをぶつぶつ言っている。
「シン兄………?」
 私は胸の前で手を握り締める。なんだか嫌な予感がする。私が今言ったこと、それにシン兄がしめした反応、今日家に帰ってきてからの違和感、全部がもやもやとひとつの形に収束していく。
「なあ、なんか変やで……………なあって」
 何かを考えながら上を向いているシン兄の膝辺りを軽く叩く。スエット越しにふれた身体は熱くて、こんなときだというのに、私は身体の芯が震えるのを抑えることができなかった。
 シン兄の身体。男の人の身体。兄にこんな感情を覚えるなんて、ほんとうにおかしいんだろうと思う。思うけれど、とめられない。声が震える、指がわななく。意識しないように努めても、気持ちが勝手に反応する。
 反応するなということは息をするなというのと同義だ。この愛はすでに私になじんで違和感などない。違和感を感じさせるのはいつだって他人の悪意に満ちた感情だ。
「シ、ン兄」
 声がはずんだ。沈黙の中、私がごくりと唾を飲み込んだ音が響く。

 シン兄はゆっくりと視線を私とあわせると、苦しそうに笑った。本当は笑いたくもないけれど、今はそうしなくてはいけないだろうと思っているような笑顔だった。
 見たことない、そんな苦しげな、覚悟を決めたような表情。
 何年も一緒にいて、同じものを食べて同じ家で育ってきたのに、今日は初めての顔をたくさん発見する。その一々が魅力的で、そのたびに嬉しくて、苦しい。
 瞳を奪われていると、シン兄はゆっくりとくちびるを動かした。
「お前の…………第一号の患者は、俺やな」
「……………え?」
「悪いことじゃないって言ってくれるんやろ?」
「…………………え、待って、シン兄」
「愛には、違いないんやんな………?」
 シン兄は、まごうことなき男の顔でそう言って笑った。
 男の顔。それも、恋愛している人の顔。
 ざわ、と、耳の後ろの毛が逆立った。
(何、何を言って……………………)
 自分の言葉を振り返る。私の患者第一号って、それって、それって。
 思考はいたずらに空転する。言葉ではない記憶とイメージが頭の中を巡る。
(シン兄の愛………?)
 電話をしていた背中。テーブルに残された残骸。使った形跡のない客用布団。柔らかく湿ったおやすみなさいの声。
(悪いことじゃないって…………)
『同性愛とか、そういう普通じゃないと思われている愛で悩んでる人の力になりたい』
(ああ)
 私が思い至ったのと同時に、シン兄は静かに宣言した。

「真田さんが俺の恋人や」


 こんなに熱っぽい瞳の男は、見たことがないと思った。
 自分に向けられたものならどんなによかっただろう。

 私が恐れ続け、嘱望し続けたシン兄の顔が、そこにはあった。




「シン兄………」
「俺ら、つきあってるんや。俗に言う………同性愛ってやつ?」
 はは、と力なくシン兄は笑う。
「まさかがな、こんなん言う思わへんかったし、不意打ち喰らって………言ってもーた」
 張り詰めた瞳でそう言った。何気ない口調とは裏腹に、口元は不自然にひきつっていた。
 いう言葉が見当たらずに見つめていると、ふ、と糸が切れたように瞳に迷いの色がよぎった。途方にくれた表情でわずかに肩を落とした。
「あー…………なんでお前にこんなん言うてんのかな。俺、おかしいな」
 ぐしゃりと顔を歪める。
 泣くかと思った。
 シン兄が、泣いてしまうかと思った。
 小さい頃から感動しいで、熱闘甲子園とか見てはこっそり涙していたシン兄。涙もろいのは家系だけど、シン兄は自分がそうだってことを誰にも知られていないと思っていた。実際は健兄含め皆わかっていたけれど。自分のことよりも、誰か他の人のために涙を流す、シン兄は昔からそういう人だった。
 私は思わず手を伸ばした。
 頬に触れそうになって、慌てて手を引き戻す。
 違う、違う、こういうのは違う。
 一瞬の逡巡の後、膝に置かれた大きい手に、そっと自分のそれを重ねた。
「シン兄」
「……………」
 俯いたその横顔は硬かった。頬がこわばっている。
「シン兄」
 きゅ、とその指をまとめて握った。
「シン兄が、誰を好きでも、私はシン兄が大好きやしな」
 その本当の意味をシン兄には打ち明けられないとしても。それでもこの気持ちには嘘はない。家族として、男として、分類したらその行く先は正反対だと言ってもいいけれど、幸せを願うその愛に偽りなんかなかった。
「真田さんのこと、打ち明けてくれてありがとう」
 精一杯、愛情が伝わるようにゆっくりと発音する。
「………いや」
「わかる、って言ったらなんか違うしそうは言わへんけど、なあ、シン兄」
 ふ、とシン兄の瞳が私を射抜く。
「シン兄は今も昔もこれからもずっと、私のお兄ちゃんやんか。それに変わりはないわ」
「そ………うか?」
「シン兄の選んだ人なんやったらすごい素敵な人やと思うよ。それがたまたま男やったってだけやろ?そんなんどうってことない。シン兄が愛やって思うんやったら、それは愛やで?」
「愛…………な」
「うん」
「正直な」
 シン兄は瞳を逸らしてぽつりと語りだす。
「あの人が俺のどこらへんを気に入ってくれたんかとか、この先どうなりたいんかとか、いっこもわからんねん。俺はいつだって自分のことでいっぱいいっぱいになるし…………でも」
 言葉を切って、何かを思い出しているような懐かしげな目をした。
「アホほどドーナツ買ってくんねん。いい年した大人がな。買い方知らんとか言って、店員に運ばせて。そんでそれ抱えて基地まで来んねん。俺がばくばく食うてたらこの世のものとは思えんくらいに優しい目で見んねん。現場では誰よりも正しくて確実でスキルもあって、神兵とか言われるくらいやのに、仕事以外ではほんま抜けてんねや」
 私は相槌をうつのも忘れてシン兄の言葉に聞き入る。
「ふたりしてどこに行くんやろうって思う。こんな風にずっと一緒におるなんて想像できへん。でも、隊長が誰かと結婚して子どもつくって……とか考えるだけで吐き気がする。自分がそうするなんてもっと理解できへんしな。あの人以外のだれかと一緒にいる自分なんて、例え想像するだけでも気持ち悪くなる…………」
 私の手の下で、ぎゅうっとこぶしを握り締めた。
「生産性なんていっこもない。オカンも結婚はまだかとか言うてくるし、まわりも嫁さんはよ作れとか言うし、それが当たり前で幸せの形で、そういう流れに乗らんと落伍者みたいに思われるのもわかってる…………」
 く、とくちびるを噛んで悔しそうな顔をした。それでも、と何かをふっきるように言葉をつないだ。
「俺はただあの人と一緒にいたいだけなんや。ずっとが無理やったら今だけでも一緒にいたいだけなんや。一緒にメシ食うたり、ビール飲んだり、テレビ見たり、そういうのだけでも充分幸せなんや。先がどうとかモラルがどうとか、そんなん知らん。わからへん。隊長が俺を求めてくれる限りは俺はそれに応えたいし、そういうのが幸せなんやって………隊長にとってもそうなんやって……………そう、感じてる」
 顔を上げて、私を見た。
「変なんかな、俺。おかしいんかな、こういうの」
「おかしくないよ」
 私は確信をこめて言う。
「なんもおかしくないよ、シン兄。それが、シン兄の、愛なんやろ?」
「そう、なんかな………」
「シン兄が好きな人が、シン兄のことを好きでいてくれるって、すごい幸せなことやと思うよ」
「そう、やろか」
「うん。うらやましいくらい」
 そう、羨ましい。真田さんのことが羨ましくてしょうがない。
 私が手に入れられなかったものを、世間の障害をのりこえて手中に収めている。辛いかもしれない、本人にしかわからない苦悩はもちろんあるだろう。でも、それが何だというのだろう。真田さんは、私の好きな人を手に入れている。
 嫉妬と羨望でどうにかなってしまいそうだった。悲しくて悔しくて叫びだしてしまいそうだった。よりによって、今、このタイミングで、なんでシン兄の愛を見つけてしまったのだろう。
 正直に、正直に言うと、こんなこと知りたくなかった。いつまでもずっとシン兄は決まった人がいないまま、仕事が恋人でいくのだとどこかで思っていた。それは私の切ない願望だったけれど、適齢期と言われる年齢をひとつ、またひとつと進んでいくシン兄を確認するたびに、もしかしたらと儚い望みを重ねてきてしまっていた。
 今、ここに、見事に打ち砕かれたわけだけど。
「俺な」
 シン兄はぼんやりと窓を見ながら呟く。
「女が嫌いとかそういうんじゃないねん。そういう嗜好は普通やと思う。―――――でも、違うんや、隊長とはそういうんじゃない。全然別のもんなんや。
 あの人が生きてるだけで、それだけで幸せやって……………そんな風に思ってしまう」
「そうなんや」
「おかしいかな。こんな仕事しといて、真田さんが死ぬんが怖いって」
 ふ、と自嘲するようにシン兄は笑いをもらした。
「誰よりもあの人の力は知ってるし、そんな風にならへんてわかってるけど…………出動するたびに、ほんまに爪のさきくらいのところで怖いって思ってる自分がいる。自分がどうこうなるんが怖いんじゃなくて…………あの人がどうにかなること、俺がどうにかなることであの人が悲しむこと、そういうんが…………怖い」
「うん」
「それで、そんな風に怖いって思う自分をみっけてそっちのほうが俺にとっての恐怖なんや。そんな無駄な感情持ったままレスキューしてて、いつか間違えたらあかんとこで間違えるんちゃうかって、そんな風に考えることもある………」
 私は黙って聞いていた。
「こんなん、言ったことなかった。言わずにずっとごまかしてふたりの中だけで終わらせていつかなかったことにして別々に生活するんかなとか思ってた。それでも今が幸せやからいいって、そう思いこもうとしてた…………」
「そう」
 ん、と吐息に近い返事をして、シン兄は口をつむった。吐き出してしまった言葉をもう一度身体に納めようとするように大きく息をついて───ゆっくりと吐いた。
「…………ちくしょう」
 はた、と我に返ったように口調が変わった。
「おいおい、なんでこんなんよりによってに言うてんねん、俺は。――――ヤキがまわったな」
 照れ隠しなのか、悔しそうにそんなことを言う。大仰に顔をしかめてぶちぶちと愚痴をたれた。
「シン兄」
「ああ?」
 シン兄は私と視線をあわせようとせず、頑なに窓の方を向いていた。首をひねったその体勢は辛いだろうに、私にはその首と耳しか見せてくれない。
 頑固者やねんから。
 私はため息をつく。
 今なら。今だけ。
 そうっと身体を動かし、シン兄の後ろに回った。
 今だけ。一度だけ。
 震える手で、その広い背中にしがみついた。
「なっ、おまっ…………」

「おにいちゃん」
?」

「おにいちゃんは、何があっても、私のおにいちゃんなん。何があっても。誰を好きでも。そんなん全然どうってことないから………………大好きやで」

「おう…………ありがとうな」
 シン兄は肩にまわした手をぽんぽんと叩いてくれた。小さい頃から変わっていないそのやり方。
 涙が出そうだ。
 シン兄に触れるのは、きっとこれが最後。
 こんな風に触れられるのはこれで最後。
 悔しいと思う気持ちと同じくらい、よかったと思っている。シン兄が愛をすることができて、本当に心から喜んでいる。
 私の愛は永遠に届かないものになってしまったけれど、可能性すらなくなってしまったけれど、そんなの前からわかっていたことだ。ただ想像するのと現実との間には大きな大きな差がある。それを今は受け止めきれていないだけ。今はただ破れた胸が痛いだけ。
 私はぎゅう、としがみついた。シン兄は何も言わずに私のしたいようにさせてくれた。
「大好き」
「おお」
 私が意図する意味は、きっとシン兄に伝わらない。それでいい。そうじゃないと困る。シン兄が困るから私も困る。
 その人が健康でいてくれさえすれば。そんな風にシン兄は言った。
 私もシン兄にそれを願っている。仕事柄、危険と常に隣り合わせなのはよく知っている。だいじょうぶだという保証はどこにもない。昨日まで誰も死ななかったからといって、明日以降もそうだという確約なんてどこにもないんだから。
 だから。
 シン兄が誰を愛していようと。
 生きていてくれさえすれば、それだけでいい。
 幸せだと毎日笑って暮らせるならばそれで、いい。
 それが私の愛情だ。


 今日だけ。今だけだから。
 私はまだ会ったこともない真田さんに心のなかで謝った。
 もう、こんな気持ちで彼に触れることはしないと約束するから。
 だから、今だけはこの背中にしがみつくことを許してください。


 熱い、とシン兄は嫌そうに呟いた。それでも私を振りほどこうとはしない。
 その胸の中で何を考えているのだろう。誰のことを思っているのだろう。

 腕に伝わる熱は、安らかなものであるはずなのに、私はそれによこしまな感情をのせてしまう。
 首のうしろに頬をつけながら、こみあげてくる涙を必死で飲み込んだ。
 ああ、本当に。どうして人はこんなにも罪深いのか。
 疑うことなく世間というものに流されていれば、比べようもないくらい楽なのに。




 シン兄の静かな声がした。
「なに」
 私は小さい声で返事をする。そうしないと涙がこぼれそうだったから。
 シン兄はもぞ、と身動きすると、暖かな声でひとこと言った。



「ごめん、な」



 ああ。
 その言葉が何を意味するかなんて。





 私は抑えきれずに涙をこぼした。

 ああ、シン兄。シン兄の幸せに真田さんがどうしても必要だというのなら、私は真田さんの分も幸せを祈るわ。
 私のこれからの幸せを全部あげるから。私はもういいから。だから。

 私の愛も、許してください。


 あつい、とシン兄はもう一度言った。
 間違ってはいない。そう信じたい。誰に何を言われても、ふと目覚めた朝に将来という言葉が重くのしかかってこようと、この胸に存在する愛だけを掲げて生きていきたい。
 皆が幸せになればいいのに。何の気兼ねもなく愛する人と笑いあう日常をすごせればいいのに。
 シン兄が、真田さんが、愛をまっとうできればいいのに。


 よりそうふたつの愛の形は、誰に認められていなくてもとても美しいものだ、と。
 心から、そう、思った。
 そうであって、欲しかった。




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大好きです!といつも柱の影からこっそりお邪魔させて頂いてましたあのドリーム
小説サイトの巨匠!Seventh Heavenの侑様に厚かましくもリクらせて頂き、
なっ、なっ、なんと『サナシマ根底のシマ妹ドリーム小説』を頂いてしまいました!
ぬあぁぁああ〜〜!どっどっどうしよう!本当に頂いてしまった!顔のニヤケが
止まらない・・・侑様ファンの皆様職権(?)乱用してごめんなさい!
幸せです!私めちゃくちゃ幸せ者ですっ!
あの侑様にサナシマ書いて書いてとお願いしてすみません!
そしてシマの妹になってシマに可愛がられつつもサナシマを応援してみたいという
邪この上ない願望を侑様に書いて書いてとお願いしてすみません!
でもでも!私の邪な願望が侑様のお手にかかったらこんなに素晴らしくて光あふれる
お話になるなんて・・・もう目から鱗です。涙で前が見えません・・・夢をありがとうございます!
そして隊長は姿を見せてないというのにシマの周りに隊長の影が愛が垣間見れて
もう何気ないサナシマが究極的でたまりませんでした!侑様初サナシマですよ!キャー!
ドリーム小説なのにサナシマ、サナシマなのにドリーム・・・相容れない二つのSSを
見事に融合させて表現しきるなんて侑様すごいです!さすが侑様です!しかも何気に
ドーナツネタ!おおおっ!あれって観察日記の隊長ですよね!うわーーん!嬉しい〜!
ありがとうございます!サプライズが盛り込まれてる〜!
お忙しい中、無理言ってすみませんでした!もう最高に幸せです!ありがとうございました!
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とても幸せな気分にしてくれる侑様の素敵なドリームSSが読めるのはコチラ ★

 +++ Seventh Heaven  侑様 +++

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